最北に生きる、人々の歴史
稚内の歴史は先史時代から始まり、5世紀頃には北方の人々が次々と渡ってきて、オホーツク文化の先駆けであるオンコロマナイ遺跡を営みました。
そして、17世紀・江戸時代にはアイヌとの交易のための宗谷場所が開設されました。
また江戸時代には北方警備の拠点として、幕府の役人や東北諸藩の藩士たちが越冬して警備にあたり、和人とアイヌとの関わりの深かった土地でもあります。
当館では土器・石器・宗谷アイヌの装飾品などの他、北方警備にあたった会津藩の武器等、最北に生きた人々の歴史を物語る、貴重な品々を展示しております。
北方探検家「間宮林蔵」 -Rinzo Mamiya-
間宮林蔵が地図測量の師である伊能忠敬から親しく教えを受けたのは、寛政12年(1800年)忠敬55歳、林蔵21歳のことでした。
この時代、日本に通商を求めるロシアの艦船が威圧的行動を繰り返し、蝦夷地周辺を騒がせていました。
忠敬との出会いから8年。文化5年(1808年)4月13日、調査のため上司の松田伝十郎とともに奥蝦夷地(樺太)を目指して出発するのでした。
松田伝十郎との探検ののち、林蔵は再度単身で樺太へ渡り、樺太が半島ではなく島であることを発見し、さらに大陸へ渡り、清朝の役所のあるデレンでの交易の様子を確認します。
当館では林蔵の生きた江戸後期から宗谷に戸長役場が置かれる明治12年(1879年)までを年表で紹介しています。
樺太事情
樺太が日本領だった40年間、多くの人々が新天地を求めて次々と宗谷海峡を渡りました。稚内市が所蔵する多くの絵葉書や地図を通して、稚内と南樺太を紹介します。
日露戦争の戦後処理を決めるポーツマス条約で、サハリンの北緯50度以南が日本領土となると、条約に従い明治39・40年に日露が共同して国境画定作業が行われました。
昭和20年(1945年)8月20日、樺太・真岡の若い女性電話交換手が、疎開に応じず職務を遂行しようと、弾丸の飛び交う真岡郵便局にて服毒自決をした「九人の乙女」の悲劇を、当時の電話交換機とパネルで紹介しています。